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【第146回酒蔵文化道場】六甲山地が生み出した水車群のエネルギー −灘の酒・植物油・素麺-<レポート有>

神戸酒心館酒蔵文化道場


第146回
酒蔵文化道場

≪題目≫
六甲山地が生み出した水車群のエネルギー −灘の酒・植物油・素麺−

≪語り手≫
水車を未来につなぐ会アドバイザー 
千種 浩氏

≪内容≫
六甲山地南麓には明治時代初め頃に、14の河川に180ヶ所を超える水車場が
六甲山の恩恵によってエネルギーを生み出していました。
これらの水車は江戸時代から昭和50年代まで廻っていました。
その水力はこの地方の特産品である酒、菜種・綿実油、素麺の生産を
支えていました。
灘酒の品質向上と大量生産は水車によって可能になったのです。
その歴史を、六甲山地で唯一? 確認できる住吉川上流の
水車産業の遺構を中心に紹介します。

水車を未来へつなぐ会についてはこちらをご覧ください。
水車を未来へつなぐ会

≪開催について≫
◆2026年4月10日(金) 16:00〜

講演レポート
作成:鷲尾圭司氏

≪経歴≫
水車を未来につなぐ会 アドバイザー
神戸市東灘区在住。1981年立命館大学卒業、同年神戸市に学芸員として採用、教育委員会文化課埋蔵文化財係に配属。神戸市内の遺跡発掘調査に携わり、その後出土遺物や遺構の保存修復部門を担当。2015〜2018年度文化財課長、2021年度まで文化財保存活用専門官。退職後、「三木市文化財審議委員会」「湊川隧道保存友の会」、「水車を未来につなぐ会」などで活動中。        

≪講演レポート≫
 ♪森の水車は休みなく・・コトコトコットン♪ 水車といえばのどかな農村風景がイメージされますが、この神戸市の都市部に水車の歴史があったことは驚きですね。
 「水車を未来につなぐ会」というのは、2006年から兵庫県勤労者山岳連盟自然保護委員会が住吉川上流左岸の六甲山系グリーンベルト事業「森の世話人」活動として参画した場所で、2015年度から生活クラブ生協都市生活が小水力発電事業を立ち上げようとしたことがきっかけとなり、2024年にこの両者を中心に発足しています。
 紹介したいのは、住吉川上流の里山に眠る水車遺構で、住吉川を上り東谷橋から上流左岸に五輌場、八輌場、導水路などが連なる景観が続きます。いずれも川床からはるかに高所に立地し、棚田状の水車場が花崗岩の石垣と滝壺をそなえて残されています。各水車場は導水路で数珠状に繋がっており、2024年度には神戸歴史遺産に認定されています。
 そもそも水車とは、水の位置エネルギーを利用して揚水、灌漑、動力といった用途に用いるものです。動力水車に必要な要素としては、「水」が雨として供給されて河川や水路を通じて提供できること、「水車設備(水車、臼、杵など)」が設置できる水車場が造成できて取付道路があること、「関わる者」として権限者(水利権)、経営者、作業者(従事者、大工、運搬者など)があげられ、「用途」としては、撞く、砕く、回す、穿つ、伸ばすなど近代化以前の装置として重要なものでした。
 水車の歴史としては、日本書紀(710)に「碾磑(てんがい)」という記載があり、大陸渡来の技術のようですが実態は不明です。江戸以前には主に灌漑に利用され、近世以降は動力としてさまざまに利用されてきました。明治期以降には欧米から蒸気機関の輸入によって西洋式動力が導入されてきましたが、国内の立地条件によっては蒸気式動力には燃料輸送の課題があって、大正期までは日本式水車も中小規模の紡績や撚糸など繊維関係、精米製粉など食品生産に利用されてきました。
 注目されるのは、京都市の蹴上発電所の誕生で、琵琶湖疎水の建設による水力を利用した発電が始まり(1891)、電気利用によって電車が走り出したことなど電気利用が広まったことです。こうした動力革命は新たな西洋式機械産業を推進していきますが、前近代からの水車利用は明治期にはまだ盛んに利用されています。しかし、特に1945年以降は大規模水力発電と送電網の進展などにより、旧来の日本式水車は急速に姿を消していきました。
 1970年代以降には近代化遺産の見直しや民俗文化財調査の進展により、産業遺産あるいは民俗資料として水車場とその関係資料、製糸・紡績関係機材が文化財指定や保護の対象になり始めました。近年では、化石燃料の過剰使用に対して、再生可能エネルギーとして水力が評価され、各地に小規模水力発電事業や実証実験が行われています。

 こうした水車場群が六甲山地南麓の小河川にたくさんできた背景としては、地形としては大阪湾を包むようにある山地は「六甲変動」と呼ばれる地殻変動が大きく影響しています。六甲山地と生駒山地が隆起し、大阪湾が沈降したことによって、多くの断層も生じています。急勾配の小河川と花崗岩地帯という地形条件、消費地である兵庫津や大坂に近いという立地条件、さらに大消費地の江戸に海運でつながる流通条件によって、六甲山南麓地域は同様の条件を持つ生駒西麓地域とともに水車による絞油業が行われました。
また、水車力への需要が増えたことにより、中には「水車新田」という水車稼ぎ専門の村立てが成立しました。いわば幕府公認の民間工業団地です。
 次いで、酒造りは江戸初期から伊丹をはじめ酒郷が生まれ、1730年代以降には今津、上灘、下灘など灘目三郷が成立します。その後従来の人力精米より精白度を高められる水車精米が品質向上とともに大量精米を可能にし、高品質な灘酒の大量生産が可能になりました。さらに、四斗樽専門の運搬船として樽廻船が考案され、輸送能力が増したことにより大消費地の江戸に運び「下り酒」として江戸で名を馳せることになりました。
 また、搾油、精米に加えて製粉によって素麺の生産も増えていき、江戸末期頃には灘目素麺は大和の三輪素麺と並ぶ産地と評されるようになりました。しかしその後、六甲山地南麓の市街化が進んで水車場が失われ、季節労働者の自立や、地域産業構造の変化がありました。とくに明治20年代以降、民間の製粉会社が設立され機械製粉による大量生産が始まったことも水車製粉からの転換を呼びました。
 ちなみに六甲山地南麓の水車群は「灘目水車」とも呼ばれますが、「灘目(なだめ)」という地名は、おおよそ武庫川から旧生田川(現在のフラワーロード)の間で、六甲山地と大阪湾に挟まれた東西に長い平野部を指します。
 他地域の水車利用としては、関東や中部圏では製糸や紡績に利用され、大阪側の生駒山地では製薬への利用が特徴でした。このように水車という前近代の動力源はそれぞれの地域の生業に適応して発展してきた技術遺産あるいは産業遺産といえるでしょう。